今日描いた 小人たち、どこから来たんだろう
 
いつもと違うところからきているみたい
 
本当はいつもちがうところからきていること教えてくれているみたい。
 
 
 
終電10分前、下り階段の縁の部分に少し大きめの文字入れたら、
 
なんだか夢中になっていた時間からすこし目が覚めた
 
 
 
あれって、
 
これ、誰がいつ描いたんだろう?って

  
 
帰りの電車、
 
この5日間、33歳になってからのあっという間の凝縮された時間が走馬灯みたいにぐるぐるしてうっかりしたら涙でるような優しい気持ちになりました。

 

いい作品は人をやさしい気持ちにする

怒 っている人を、悲しんでいる人を、苦しんでいる人を、そのまま受け入れる

  



ぼくは怒っているわけでも、悲しんでいるわけでも、苦しんでいるわけでもたぶんないけれど、基本的にはいつも戸惑っていて、身の丈に合わない洋服を着せられてるような居心地の悪さを絵を描くことで調整している。

調整 はうまくいくことのほうが少なくて、油断したらあっという間に何かほどけていく。
 
世界と自分の距離はダボダボになる。

調整過程として目に見える形になった絵が、ヒントのようにそこに残る。
 


世界はまだ絵を描くことを受け入れてくれるのか

描いてもいい時間はどこにあるのか
 
描いてもいい場所はどこにあるのか
 


描いている時間はとても幸せで楽しい、
 
手に触れる素材の感触、来てくれた人、見てくれた人、そこにある建物、
 
音、光、もの、記憶、夢、いろんなものを翻訳していく気持ちで指先から目に見えるものに作り替える。

 

夢中になれるほうへ、少しでも長く、
 
少しでも多く、

小さな点でも、線でも、面でも、色も、

命をもって生まれてくるように。祈りつつ、信じつつ。
 

 
あの角曲がる。
 

あの隙間ジャンプする。