メモ(文字にしてはいけない、することのできないもの)
 
泥絵をやるたびに散々聞かれるけれど
泥絵には、本当に土と水以外は使用していません、
例外として糊的なものを使うことはこれまでオンゴーイングでやった個展に、でんぷん糊を混ぜたのみで
そのほかは全て、水しか入れていません
そして使っているのは、場所にも寄るけれど全ての場所で必ず土を掘りそれを半分くらい、残りは陶芸用の粘土を使います、
(陶芸の土の色も全て天然のものです)
あとは筆や指で描いて、乾くのを待つだけ
乾いた泥絵も霧吹きやへらでこすったりして表情を変えていく
わかりやすく言えば始めに太い筆、だんだんと細い筆に持ち替えていって、最後の方には針を持っていたりする
そうしてその場所の中で延々遊んでいられる、
泥絵を描くのはとても楽しくて、中でも完成の直前が一番楽しい
いつもこれからが本当のスタートのような気がする。
 
 
去年の4月、インドネシアで始めて土を掘って、水を混ぜて筆につけて絵を描いた、
便宜上プランドローイング的なものは描いてきたけど、
実験などしないし、どんな絵を描くのかもわからなかった
それでも絵は出来上がった、普段植物を伸ばすように、同じ気持ちを心がけて描いた
 
自分の描きたいものを描くのではなく、その場所と仲良くなりながら必要なものを足していく気持ち
大きな人が笑い、牙を持った動物がほかのいろいろな植物や動物と一定の距離を保っていた 
 
始めに考えていた絵と、一筆目から変わることもしばしばで、そのたびにわくわくして時間の流れ方が変わるのを感じていた
絵を描くときはいつもそうだけど自分は自分の限界を信じていない節がある(これについてはまだ良くわからないけど今のところ荘としかいえない)、限界と思っていたところを超えてみたところでどこまで行っても自分だし、絵を描いていればどこまででもいけるのだと思っている
ただ「絵を描けばいい」、ただそれだけの言葉は信じている
 
日本に帰ってきて今まで、泥絵を描く機会に恵まれこの間の博多で大小11の泥絵を制作したことになる
土はただ掘ってきてそのまま使うんじゃなく
いろいろ手に馴染ませる
ふるいにかけることもあるし、手で少しずつ小石や虫、根っ子をとってみる
あったかい土や、冷たい土、虫がいっぱいいるやつや、くさい土、いいにおいの土、じゃりじゃりしているもの、
そういうのが、必要な分だけ本当に不思議と見つかる、

つまりインドネシアも入れれば12箇所の土を掘ったことになる、
そういわれればこの一年気がつけば土を掘って、そしてバケツを洗っていた、そしてたくさんの絵をスポンジで消した
 
泥絵はスポンジで消える、
食器洗いのあのスポンジ、そのやわらかい方で消える、その他にはバケツと水しか必要ない。
後は時間をかけて丁寧に消していく
消していくとき不思議と「消す」という感覚じゃなく、「戻す」という感じに近づいていくのを感じる、
絵を消しているんじゃなく、これは土に戻るのだと思う。
それはとても不思議な感覚で、自分がやったことが逆回転していくような気分にもなる、
全てが消えた壁を見て、自分の中に何かが戻ってきたのを感じたりした。
 
群馬の山の絵を描いているとき、初めてこれは自分の知っているものだと思った、
自分が描いているものは妊婦だと感じた、
自分の描いているものが何かわかることってこれまで経験してこなかったので(いつも良くわからないままのびのびする方へ描いていたから)
驚いた、そしてこれまで自分の外とも中ともつかない、枯れることのない泉から湧き出るようにして描いていたものが、
その瞬間は確かに自分の内側からそぎ落としていくような感じを思った
それから博多の樹を描いて、それはますます確信的なものなった、
自分は自分を描いていると思った、どんどん自分が切り取られているような感じがした
そして対になっているもの、群馬の山を思いながら描き進めることで
いつもとは明らかに違うやり方でその泥絵は完成した。 
 
そしてなんとなく、
もう泥絵は今のままではもう多くは描けないかもしれないと思った、
吉祥寺で紙を貼って描いてみるというのをやった
赤坂で柱や階段といった複雑な要素の中で描くと言うのをやった、
水戸で初心に帰り、描きたいものを手の動くままに描いた
広島でガラスのみ描くと言うのもやった
大阪で上下左右前面に描くというのをやった、
群馬でこれまでにない高さの絵を描いた、初めて残すことを考えて小さな箱にも描いた
博多で自分のやっていることが少しわかった、 
 
なんだか変な渦が自分の中にある、
コンロコンロコロコロと変な音を立てている
これはどこへつながっているだろう
これからどこへいこう。